北村信彦 HYSTERIC GLAMOUR | それぞれの原宿物語 a long time ago in harajuku vol.6

photography by KAZUMI KURIGAMI
text by MASAFUM YASUOKA

世界的ファッション都市、原宿に縁のあるクリエイターをインタビューする連載。第6回は、日本のストリートファッションの第一人者であり、また今ある東京カルチャーの礎を築いたブランド、ヒステリックグラマー創設者の北村信彦さん。80年代から日本のファッションカルチャーをつぶさに見てきた北村さんは、一体どんな人生を歩んできたのか、そして世界、東京、原宿をどう見てきたのか。自身のヒストリーとともに、語ってもらう。

東京カルチャーは、このブランドから始まった

北村さんのヒストリーから
東京カルチャーを読み解く

守谷 : この企画って原宿物語と題してはいるんですけど、別に原宿に限った話じゃなくてもいいんです。というのも、結局かつての原宿で遊んでいた人たちにお話を訊いていくと、行ってた場所とか結構似通ってきちゃってて(笑)。だから今日は、北村さん自身のヒストリーを改めて聞いてみようかなと思っています。ヒステリックグラマーを立ち上げてから、もう30年以上ですよね。

北村 : 36年だね。

守谷 : 僕にとっては、今におけるドメスティックブランドの草分け的な存在だし、それこそアンダーカバーのジョニオさんとかソロイストの宮下君とかの兄貴分的な存在ってイメージなんです。そもそも、どうやってデザイナーになったんですか。

北村 : 正直、初めからデザイナーになりたくてなったわけじゃないんだよね。生まれは三軒茶屋で、いわゆる山手の中の下町で育った。それで、中学に入る頃には埼玉県の新興住宅街に引っ越したの。まぁ、いわゆる都市団地だね。あの当時は大型の団地がたくさん建てられた時代だったんだけど、長屋育ちには、ちょっと違和感があったなぁ(笑)。

守谷 : 当時のファッションシーンって、どんな感じだったんですか。

北村 : 中学校の頃には、メンズビギやニコルとかがあったね。でも自分自身は、洋服にはまだ大して興味なかった。それよりも音楽が好きだった。将来なりたかったものも、そっち方面だったし。

守谷 : じゃあ、どうやってこっちに。

北村 : 中学校からの親友が、高校中退して美容の専門学校に通って、卒業後美容師になった。そしたら、当時の流行の最先端をゆく撮影現場とかに立ち会ったりすることが出来るって話を聞かされて、それからなんとなく美容学校に興味を持って、同じ学校に願書を出したって感じ。

守谷 : 最初は美容だったんですね。

北村 : そう。その専門学校が、中学生の時から毎週のように通っていた新宿のレコード街から近かったから、ちょうどいいやって。で、願書出していざ授業料払おうかって時に、知り合いから東京モード学園が新しく開校するって聞いてね。それが1980年のことかな。

守谷 : 開校時に入学したんですか。

北村 : 西新宿だったから、よく行ってたレコード街にさらに近くてね。だから、ある日レコード買った帰りに寄ってみたんだよ。そしたら、たまたま学長がいて、話を聞いてみたらなんかこっちの方が面白そうだなって思って進路を変えたんだよね。

守谷 : まさに出会いですね(笑)。

北村 : とはいえ、その頃は「モードって何?」ってレベルだったけどね。なんとなくデザインを学ぶ学校なんだなって程度の認識(笑)

辿り着くのは必然だった
ロックとの衝撃的な出会い

守谷 : 音楽系の学校には何故行かなかったんしょう?そもそも音楽との出会いっていつでした?

北村 : 小学生の頃、友達の兄ちゃん世代がレッドツェッペリンとかイエスとかの、プログレッシブロック系をよく聞いてたんだよ。友達の家に遊びに行ったら、そういった音楽がそいつの兄ちゃんの部屋から聞こえてくるんだ。飾ってあるポスターとかを見て、「この音楽って何だろう」って思ってた。そしたら中学1年生の時に、親戚の兄ちゃんがコンサートに誘ってくれたの。友達が行けなくなったから、「お前来い」って。それがスージー・クアトロのライブだった。

守谷 : おお!いきなりスージーでライブデビューっすか。

北村 : すごい衝撃だったね。周りには大人しかいないし。すごいカッコ良かった。セクシーだし。それを見て、これがロックなんだって開眼したね。当時、テレビ番組で銀座NOWって番組があって、そこに初来日したキッスやクイーンとかがゲスト出演してた。

守谷 : 周りの環境って大事ですよね。中学1年生でスージー・クアトロを観れるなんて、贅沢ですよ。

北村 : そうだね。引っ越した埼玉の団地は新興住宅街だけあって、親世代も若い人たちが多かったんだけど、彼らもロックとか聴いていたよ。生活の中で自然とロックに触れることが出来たのは、今考えると幸運だったかな。

守谷 : で、何故音楽の道に行かなかったんですか?

北村 : 中学2、3年の時に、バンドをやってたんだけど、やってるうちに聴く方が楽しいなって(笑)。そこからかな、さらにレコード街に通い始めたのは。

音楽からファッションへ
今へと続くその原点

守谷 : モード学園の同期って、どんな方がいらっしゃるんですか。

北村 : クラスは違うけど、演出家の若槻善雄君がいた。年齢が一緒だったから、出会って間もなく意気投合してね。当時、僕のクラスに彼が付き合っていた女の子が居たんだよ。授業の合間に彼が僕のクラスに来るから(笑)。それからまもなくして、ツバキハウスとかに一緒に行くようになったね。一番古い友人だよ。

守谷 : 家族みたいなもんですね。

北村 : 彼の長野の実家にも、正月に遊びに行ったりしてたし。

守谷 : 当時のツバキハウスって、どんな感じだったんですか。

北村 : まだディスコの延長線上って感じかな。でもニューウェーブなロック系とかの曲もかかってた。当時では最先端だったよ。

守谷 : 専門学校に入る前は、ファッションにどれぐらいの興味があったんですか。

北村 : 全然だよ。ただ、ミュージシャンが着ている衣装には興味があったかな。自分が着る服に関しては、デザイナーズよりもヴィンテージとか古着の方が好きだったね。とはいえ、ファッションとして見ていた感じではまだなかった。

守谷 : おお、それはまさにヒステリックグラマーに通じますね。

北村 : そうだね。その根本は今もあまり変わらないかも。デザイナーズだったら、メンズビギかな。当時、菊池武夫先生はイギリスからパンクやストリートでイキのいい奴等を東京に連れてきて、ショーをやったりしていたから。確か高校3年生の時だったかな、パルコの地下にメンズビギがあって、販売員のお姉さんがショーのチケットをくれたの。それで見に行ったらカッコ良くてね。服に興味が移行した、きっかけになった日だったね。

守谷 : 当時としては、相当に新しい試みですよね。そういえば、以前菊池先生とお話させて頂いた時、菊池先生がファッション業界を志した時は、「まだメンズファッションという概念さえなかった」とおっしゃってました。

北村 : そうだろうね。かなり時代を先んじてたから。

守谷 : その出会いから、どういう道筋を辿ってヒステリックグラマーに。

北村 : ブランドを始めたのは21歳。専門学校の時点では、まだ将来のビジョンなんてまるでなかった。学校の課題を、淡々とこなしているだけ。クラブやライブとか行きながらね。まぁ、よくいる学生だよ。

守谷 : 成績は?

北村 : どうだったんだろう。実は課題を全部提出しきっていないんだよね(笑)。卒業証書も、卒業して随分後になって頂いたから。本当は4年行くところを、早く卒業したかったから2年目は夜間も履修して、実質的には3年で卒業したよ。

守谷 : 卒業後は何を?

北村 : 学生最後の1年間のモードはビジネス科で学校を2年で卒業した若槻君が就職した先がショーとかを演出する会社で、人手が足りないから来ないか?って誘ってくれて、アルバイトしてた。

守谷 : それからどうやってヒステリックグラマーに?

北村 : 若槻君の会社でのアルバイトと並行して、アパレルの会社でもアルバイトしてた。若槻君の友達がそこにいて、デザイナーを探しているっていうから行ってみたんだ。それがオゾンコミュニティ。

1アイテムデザインしたら2千円、カラーバリエーションまで考えたら3千円くれるっていうから。1週間で10アイテムデザインしたら3万円になるから、こりゃいいなって。レコードも買えるし、夜遊び代にもなるし。当時はまだそんな考えだった。

守谷 : 就職先としては、確かジュンにも受かってたんですよね。

北村 : そう、内定をもらえたからそこに行こうとしてたらオゾンから電話がかかってきて、レディーブランドを立ち上げるから正式にウチにこないかって。

守谷 : レディースがキャリアのスタートだったんですね。

北村 : 当時は逆ユニセックスって感じで、デビッド・ボウイやミック・ジャガーなんかが、細身のレディースを着ていたし、レディースって言ってもメンズ視点のレディースって感覚だった。だから、デザインしたのもロックなイメージが強かったね。

俺たちの時代はとにかくロックだった

挑戦と試行錯誤の連続
ブランド創業時のあれこれ

守谷 : それが、ヒステリックグラマーの始まりと。そういえば、ブランド名の由来って何なんですか。

北村 : 翻訳出来ない名前にしたかった。日本語で表現しづらいもので、なおかつインパクトのあるものに。辞書で色々と単語を引っ張り出しては組み合わせたりして考えてたら、ある時ステージでのパティ・スミスのようなヒステリックなイメージと、デボラ・ハリーのようにグラマーな女性像が頭に浮かんでね。ブランドの世界観的にも、ハードにもセクシーにも幅広い表現が出来るし、いいかなって。

守谷 : なるほど。最初ってどんなアイテムを作ってたんですか。

北村 : 覚えているのは、アロハかな。かなり派手なプリントの。あとは、コテコテに刺繍を入れたスタジャンとか。

守谷 : その時の反響ってどうだったんですか。

北村 : 自分としては、まだ無我夢中って感じ。初めて展示会を開いた時も、大丈夫かな?って感じだった。でも、初日でしかも一番最初に来てくれたのが、雑誌オリーブの編集長の淀川さんだった。すっと入ってきて、1周回ってすっと帰っていった。その時、僕は淀川さんを知らなかったから、スタッフから編集長だって聞いて落ち込んだよ。

守谷 : 落ち込んだ?

北村 : 自分としてはまだまだだって思っていたから、もう少し自信がついた頃に見て欲しかったんだ。だから正直「まったく、誰が呼んだんだよ」って思ってた(笑)。でもその日の夕方に電話が来て、明日からパリで撮影するからサンプルを借たいって申し出が来たの。そこですぐ手配して、メインアイテムを30型ぐらい貸し出した。展示会の初日にそれだけのメインアイテムを貸し出しちゃったものだから、その後に来てくれた人にえらい怒られちゃったけど(笑)。でも、その号が出版した後は反響が良かった。

守谷 : ヒステリックグラマーがオリーブから火が付いたって、今のブランドイメージからすると意外ですよね。その後、どういう方向性で行こうと考えていたんですか。

北村 : そもそも、専門学校に行くきっかけも、ファッションからと言うより音楽やサブカルチャー好きからだったから、いずれは好きなアーティストと一緒に仕事が出来たらいいなって考えてた。当時は川久保玲さんや山本耀司さんとかがパリに進出して話題になってた。ある時ディオールのアーカイブを見ていたら、60年代のディオールがやっていた表現が、川久保さんが当時発表していたデザインとシンクロする部分があることに気がついたんだよ。でも、僕が目指す方向はそっちじゃないなと。音楽とサブカルを追求していった方が続けられるなと思った。

守谷 : 今になっても、ヒステリックグラマーみたいに、ちゃんとロックとファッションをシンクロさせているブランドってないと思います。しかも、メンズもレディースも揃ってロックというのは、なおさら。ちなみに、ヒステリックグラマーが最初にコラボしたバンドって何ですか?

北村 : ソニックユースだね。90年代に入ってから。

守谷 : その頃って、日本のブランドとのコラボって大変じゃなかったですか。

北村 : いや、そうでもなかったよ。80年代の終わりぐらいから90年代の初め頃までニューヨークにHYSTERICのショップを構えていた時があって、そこにソニックユースのキムが来てくれていたからね。それで、知り合いでミュージシャンを撮っている写真家がいて、その人がソニックユースを撮るから衣装をヒステリックグラマーで協力してくれないかって話が来たんだよ。それからフォトセッションした後、ワールドツアーを今度やるからTシャツ作ってよって話になって。

守谷 : それはブランド立ち上げから何年後のことですか。

北村 : 確か91年だったから、7年後のことかな。

守谷 : ニューヨーク出店が、功を奏したってことですね。

北村 : イギーポップとかも通ってくれていたみたい。当時は、日本のブランドが店を出すってレアケースだったし、おまけに場所がイーストビレッジだったこともあって、感度の高い人たちが面白がってくれたみたいだね。とはいえ、当時はそこまで計算していなかったけど。

SENSEと北村氏は、切っても切れない関係だ

昨年に創刊20周年を迎えたSENSE。北村氏が初めて登場したのは、まだ月刊誌となる以前の2003年のこと。実に17年前となる。以来、ことあるごとに登場してもらい、先日久しぶりのコラボを実現させた「アンダーカバー」の高橋盾氏や、編集・アーティストの米原康正氏との対談なども掲載させてもらった。20周年イヤーとなる昨年も、ロングインタビューを敢行。今回のインタビューと合わせて読めば、より北村氏の素に迫れるかと。

当時だからこそ出来た
カルチャーとの付き合い方

守谷 : その頃から、好きなバンドって一貫してますよね。全然ブレてない。何か信念があるんですか。

北村 : ソニックユースも、同世代のバンドだからね。一緒に年を取ってるだけだよ。

守谷 : 若いスタッフとかは、もう知らないんじゃないですか。

北村 : 知らないだろうね。同じ時代を生きていないと、伝わりづらい部分はある。でも、遡って良さに気づくこともあるからね。僕らだって、80年代に60年代とか70年代の音楽を掘ってたりしたし、今の若者だって90年代の音楽やファッションを掘ったりしてるでしょ。結局、やってること自体は一緒だよね。ただ、今の主流は長らく続いていたロックではなくなった。時代はヒップホップが主流だけど。とはいえ、もはや若い子達にとってはジャンルなんて関係ないって感じだからなぁ。それはそれで、面白いよね。

守谷 : ミクスチャーが当たり前の世代ですからね。若い世代のミュージシャンとのコラボって、やってるんですか。

北村 : 最近だと、ザ・ゴースト ウルヴスとか。(野口)強君とのカタログの撮影でナッシュビルに行った時、ライブハウスでたまたま出会ったんだよ。他にも国内の若いアーティストともやったりしてるよ。

守谷 : でも、ノブさんはご自身が若い時に、かなりアナーキーな生活をしてましたよね?

北村 : そうだね(笑)。23歳ぐらいから5年間ぐらいは、日本人の友達とはまるでつるんでなかったなぁ。ほとんどが外国人。当時はフォトグラファーの卵やデザイナーの卵が、たくさん東京に来ては住み着いてたから。

守谷 : ソフィア・コッポラも来てましたしね。その時、東京カルチャーをどう見てました?

北村 : まだ発展途上って感じだったかな。ショーのアルバイトをしていた時に、デザイナーとかと打ち合わせをするでしょ。ショーにすごいお金を掛けてるんだけど、たった半年でコンセプトが一変したり、そもそもクオリティが低かったりと、正直「何でこんなブランドがショーなんて出来るんだろう?」って思ったブランドもあったよ。自分はもっと違うやり方でやっていこうと、面白そうな奴と出会ったら、ウチに住まわせたりしてた。会社でも外国人スタッフを入れて、仕事もプライベートも英語しばり。そうすると、日本人の友達がだんだん寄り付かなくなってくるんだよ(笑)。東京にいながら、ロンドンやニューヨークにいるみたいな環境を作ってた。

守谷 : ヒスガールをはじめ、ヒステリックグラマーには印象的なキャラクターがたくさんいますが、そのアイデアはどこから?全てノブさんが?

北村 : 88年だったかな。モデルとして日本に来日した奴がいて、彼は元々ニューヨークのショップに通ってくれていたらしく、東京に行ったらぜひ会いたいということで来てくれた。その時、グラフィックもやっているので見て欲しいと、ウチ用に何枚か描いてきてくれたんだ。そのクオリティが良かったから、「じゃあウチで働きなよ」ってなったのがステファン。結局彼は日本でモデル業なんてやることなく、ウチでグラフィックをやってたけど、そんな彼とのコネクションから色々なものが生まれたよ。ちなみに、ソニックユースとのフォトセッションで着てもらったTシャツのグラフィックも、彼が手掛けたものだったね。

守谷 : 何で女性をキャラクターにしようと思ったんですか?

北村 : 僕もステファンも、ロックで不良でヒップな、男負けしない女の子が好きだったんだよ。脱いでもエロすぎず、クールでカッコいい。それってまさに、ロックに目覚めたきっかけとなったスージー・クアトロ的な。

守谷 : 憧れの女性像を、キャラクターに落とし込んだと。

北村 : そう。

守谷 : ノブさんはSENSEでこれまで何度か取材させてもらってますけど、最初からあまりイメージが変わらないんですよ。

北村 : 90年代に入ってからは、あまり変わってないかも。

守谷 : ちなみに、黒って好きですか。

北村 : Tシャツ以外は黒が多いかな。Tシャツだと、黒・白・トップグレーは着ないから。

守谷 : なんでTシャツだけ?

北村 : Tシャツって、その3色しか売れなかった。その頃はTシャツをメインで作ってたんだけど、どんなに色とか工夫しても結局その3色しか売れない。だから敢えてパープルとかピンクとか、カラーTシャツを着るようになった。同じ色着るのが嫌でね(笑)。

守谷 : 売れるものは着ないって、ロックですね(笑)。ちなみに、当時のスケッチとか残ってますか。

北村 : いや、終わったものは全て捨てているから残ってない。

心焦がれるもの、それが見たい

80年代から見てきた原宿
その今、そして未来とは

守谷 : 当時、原宿に対するイメージってどんな感じだったんですか。

北村 : まだ裏原宿なんてない時代だったけど、感度の高い外国人は目を付けているって印象だったかな。僕ら世代よりもちょっと上の世代は大人な不良が集まる場所って感じだった。70年代の印象だけどね。でも、集まる人も情報も、今よりも刺激的で高感度な場所だったと思う。80年代はラフォーレだけが、唯一輝いていた印象。90年代になってからは、やっぱり裏原宿のイメージが強いよね。

守谷 : ノブさんって、どうしても原宿って似合わないですよね(笑)。

北村 : 正直、避けてきたね。というか、メインの遊び場所が西麻布とかキラー通り、いわゆる裏青山だったから。そっちの方に面白さを感じてたかな。

守谷 : バブルの恩恵って、まあまあありましたか?

北村 : お金の面で美味しい思いをしていたのは、僕らより上の世代だったかな。当時20代前半だった僕らは、それほど美味しい思いをした印象はないかな。

守谷 : お話を聞いてると、東京カルチャーっていうと90年代のイメージが強いですが、そのルーツは80年代で、しかもヒステリックグラマーに辿り着く気がします。

北村 : ヒステリックグラマーかどうかは分からないけど、でも80年代当時にロンドンの連中とかが日本に来た時、ウチで商品を買っていってくれて、それをロンドンで仲間に広げてくれたんだよ。それがギミーファイブのマイケルとかの間で話題になったりして、それで周りのクリテイターたちがヒステリックグラマーのビデオを撮ってくれたりした。そんなことがあって、ロンドン出店に繋がったりしたからね。その直後ぐらいからだね、今でいう東京カルチャーが確立され始めたのが。

守谷 : その後の裏原ブランドの台頭って、どう思ってました。

北村 : ありがたかったね。

守谷 : ありがたかった?

北村 : それまでは、孤軍奮闘というか、カウンターカルチャーといえば聞こえはいいけど、四面楚歌だったから。そもそも、ストリートやロックといったカルチャーと結びついたファッションがなかったから。ヒステリックグラマーだって、最初の頃はDCブランドって言われてたんだよ。裏原宿の盛り上がりによって、ストリートのカウンターカルチャーがより理解され広まっていってくれたと思ってる。

守谷 : なるほど。そんな意味でも本当に東京ストリートはヒステリックグラマーからはじまってるんだって分かりました。

北村 : 世代は違っても、感覚が似ている部分が多いから。レディースとメンズの境が無くなったり、バンドブームだったり、僕ら世代が青春時代に影響を受けたものが、形を変えながらも繋がってる気がする。

守谷 : ヒステリックグラマーは、ロックがベースだけどミクスチャーの原点でもある気がします。それって、何か計算があったんですか。

北村 : 計算はないけど、英語を意識して身につけたように、いろんなカルチャーを取り入れようとはしてたかな。そんな感じで作ってたら、いろんな国の人が面白がってくれたって感じ。

守谷 : 当時は相当忙しかったんじゃないですか。

北村 : 情報交換もクラブ通いだったからね。もちろんインスタなんてないから、ほとんどが人と人との繋がりで、何か新しい情報を得ようとしたら外に出かける必要があった。

守谷 : そんなノブさんから見て、今の東京・原宿のファッションやカルチャーってどう思いますか。

北村 : 感性の良い子はたくさんいると思う。80年代、90年代を生きた感度の高い親の影響を受け継いでいる子なんて、僕ら世代よりも成長スピードは早いと思う。ただ、それはあくまでベース。そこからどう発展して自分たちのカルチャーを作っていくかは別の話。特に個性が大事だと思う。今は、テレビCMひとつ取っても、どれも同じ。同じ人が同じことをやってる感じ。それに心が焦がれることがあるかと聞かれたら、ないと答えざるを得ないかな。ある意味では成熟しきったと言えるのかもしれないけど、僕は何も刺激を受けないな。

守谷 : 焼き直しばかりですからね。

北村 : 業界もいけないんだけどね。もうCDは売れない雑誌は売れないって。才能って放っておけば伸びるものじゃないから、ちゃんと誰かが手を差し伸べる必要がある。でも今は上の世代がモノが売れない時代だからと諦めちゃってる。例え売れなくても、内容が良ければ世に出すべきだと思う。アートブックだって、何万部じゃなくて100冊だって別にいいと思うよ。どう?SENSEでそんなの刷ってあげたら?

守谷 : 確かに(笑)。耳が痛いです。

北村 : ははは(笑)。とはいえ、昨今の90年代のリバイバルは納得出来る。あの時代は日本のファッション史、カルチャー史において、大きな転換期だったと思う。単純な焼き直しはどうかと思うけど、あの時代をもう一度掘り返して考察するのは、とても意味があることに思えるな。

守谷 : 確かに。でも改めて、90年代の東京ストリートは、ヒステリックグラマーがなければ生まれていなかったかも知れないと思いますね。

北村 : そんなことない。でも、そう思ってくれたなら、嬉しいね(笑)。