大久保篤志 The Stylist Japan® | それぞれの原宿物語 a long time ago in harajuku vol.7

photography by KAZUMI KURIGAMI
edit by HAYATO HOSOYA text by SEIRA MAEHARA

世界的ファッション都市、原宿と縁のあるクリエイターをインタビューする本連載。第7回は、現代のスタイリストの礎を築いた第一人者でもあり、自身のブランド「The StylistJapan®」を手掛ける大久保篤志さん。多くのアーティストの洒脱なパブリックイメージを生み出してきた大久保さんは、長らく住み続ける原宿を“安心する街”だと語る。同郷の操上和美さんにも参加いただき、影響を受け続けたという原宿の“あの頃”にフォーカス!

上京した自分がダサく見えるほど、
原宿はファッションの最先端だった

鞄一つで原宿に来てから
カルチャーショックの連続

守谷 : 大久保さんは、今も原宿に住まわれていますよね?

大久保 : そうそう。今住んでいるところも60年代からあるヴィンテージマンションで。僕の部屋は、キッチン周りとかも当時のオリジナルのまま残してるんだよ。高さが低くて使いづらいんだけど(笑)。

守谷 : そのまま残ってるなんてすごい! 上京はいつ頃なんですか?

大久保 : 20歳の頃なので、75年かな。人口3000人くらいの町から、鞄一つで上京して。原宿の竹下通りに着いて感じたカルチャーショックは、今でも覚えてる。すごすぎて。

守谷 : その時からスタイリストになるというビジョンはあったんですか?

大久保 : いや、全くなかった。ただファッションには興味があって、デザイナーにはなりたいけど、なんか違うなぁとか色々考えてたよ。勉強も全然していなかったから、1年間札幌の予備校に通って。でも洋服が好きだし、とにかくカッコいい人を見たいという思いもあって、文化服装学院に行こう、と上京したんだよ。で、最初に行ったのが竹下通り。

守谷 : そこでカルチャーショックを受けたんですね。

大久保 : 北海道から出てきた時は、自分の格好もロンドンブーツにパッチワークのデニムでさ。髪型もロッド・スチュワートを真似た感じだった。まあ、出来損ないのミュージシャンみたいな格好だったんだよ(笑)。

守谷 : そんな時があったとは……。

大久保 : そんな感じで北海道から出てきたから、原宿に着いたらなんか違和感を感じて。竹下通りやセントラルアパートの近辺に行っても、ロンドンブーツを履いてる人なんていなかったし。セントラルアパートの地下にあった、原宿プラザというところだけが若干共鳴する感じ。「全然ファッション違うじゃん! なんかダサいぞ」と。文化服装学院に行ったら、ロンドンブーツなんてやっぱり時代遅れになってたし。イケてるみんなが穿いていたのは、ツータックのパンツとかテーパードのパンツ。上も1920年代、30年代のアメリカのスポーツウエアみたいなやつで

守谷 : テニスウエアみたいな?

大久保 : そう。ああいうものが、すごくイケてる雰囲気だったの。ちょうどゴローさんのビルの向かい側にも、原宿ファッションビルみたいな建物があって。意外とイケてる店が入ってたんだよね。

操上 : あったあった。

今でも鮮明に覚えている
3人のカッコいい大人たち

大久保 : そこに、ブティック バズショップという伊藤美恵さんがやっていたお店があって。

操上 : 高橋幸宏さんのお姉さんがやっていたお店だよね。

大久保 : そうです。そのお店にいた、ピジョンさんというスタッフの方がめちゃくちゃお洒落で、鮮明に覚えてる。

守谷 : 今でも覚えていらっしゃるほど、印象的だったんですね。

大久保 : 普通にタックパンツなんだけど、フィッシャーマンセーターを合わせて首にスカーフを巻いていたんだ、しかも短髪でさ。当時はそんな格好を見たことがなかったから、それがまたガーンとカルチャーショックで。あと、亡くなっちゃったんだけど、パーソンズの岩崎隆弥君も同じく。

守谷 : 僕も(岩崎さんから)昔、アートを買わせていただいた事があります。

大久保 : 俺と同い年なんだけど、当時からすごくお洒落だった。シンガポールナイトっていう飲食店があったんだけど、そのお店の中に岩崎君が最初に作ったラバーソールの靴が置いてあって。あれはすごく衝撃を受けた。当時、厚手のラバーソールの靴なんてなくてさ。岩崎君が浅草辺りで作らせていたんだけど、それがすごくカッコ良かった。

守谷 : そうだったんですね。

大久保 : まだ完成品ではなかったんだけど、とにかくカッコ良かった。それからベルトを作って、その後に洋服。で、パーソンズを始めたんだよ。

守谷 : 文化服装学院で知り合ったんですか?

大久保 : いや、たまたまなんだけど、原宿も狭いからさ。文化の時にお洒落だなって思っていた友人の、そのまた友人みたいな? 目立つ人ってそうはいなかったし繋がっていたから。それから1~2年経って、ようやく自分の中で少し落ち着いたなって頃に見かけたのが、チカちゃんと中西君。原宿をふたりで歩いているのをよく見ていて、その姿が本当にカッコよかったなあ。

守谷 : プラスチックスの。

大久保 : ふたりの、あのさり気ない格好にやられちゃいましたよ。ピジョンさんと同じくらい記憶の中にガーンと残ってる。

守谷 : 大久保さんの原点に近い方々なんですね。

敷居が高くて近付けなかった
聖地セントラルアパート

大久保 : そうだね。札幌から出てきた75~77年辺りは、そういう方々の格好が本当にクールで。操上さんがいたセントラルアパートの近辺と、そこから上に上がったところにある武夫先生のビギみたいなショップ群は、同じ原宿でもまたちょっと敷居が違ってくるワケ。ガキンチョで田舎者だった俺はそこまで行けなくて。セントラルアパート近辺から、表参道の交差点まで行かないぐらいの場所でウロチョロしてた(笑)。

守谷 : 大久保さんが行けないくらいとなると相当すごいんだろうな(笑)。

大久保 : でもすごく面白かったよ。竹下通りにいた3年間ぐらいっていうのは、学校よりも楽しくて。学校にほとんど行ってなかったね(笑)。

守谷 : それだけ得られるものがたくさんあったってことですね。当時からずっと原宿ですか?

大久保 : その頃は、住んではいなくて。原宿に住み始めたのは36、37歳くらいの時。やっぱり落ち着くなと思って、戻ってきたんだよ。それからはずっと原宿にいる。

守谷 : 落ち着くんですね。

大久保 : 今住んでいるところから、神宮前2丁目にある事務所までよく歩いて行くんだけどさ。原宿警察署の通りからとんちゃん通りに行って……このルートがもうなんだかホッとする。BEAMSができた当時からよく通ってたところだし。その時のBEAMSは、重松さんと岩城さん、バイトの女の子の3人だけ。そこも楽しかった。

操上 : そういうもんだよね。

守谷 : BEAMSできた当時は、おいくつぐらいですか。

大久保 : まだ竹下通りのショップでバイトしてた時かな。とにかくそういう新しい店に飢えていたから、よく行っていて。でもBEAMSの前によく通ってたのは、垂水ゲンさんのところ。神宮前のらせん階段がある小さい建物で。以前、NIGO®君のショップがあった場所の向かい側。ほんと狭いところですよ、建物自体は今もあるんだけどね。そこのらせん階段の2階が、垂水さんのお店だったんですよ。ハリウッドランチマーケットの本当の初期。そういう新しいお店ができたから、よく竹下通りから自転車に乗ってそこまで行ってた。階段を上がっていくと、まずお香の香りが入ってくるようなところでさ。

守谷 : ハリウッドランチマーケットって代官山じゃなかったんですね。

大久保 : 最初は神宮前にあったんだよ。今じゃ当たり前みたいになっているけど、当時はお香を焚いているお店なんてなかったから、初めての経験で。お香はヒッピーカルチャーからきているんだけど。お香を焚いて、破れたジーパンを売っていて、ハワイアンシャツがあって。ウエスタンブーツがすごいウケたみたい。で、店員はみんな坊主頭、フィッティングルームはトイレで、犬も普通にいる(笑)。

操上 : ははは。すごいね(笑)。

大久保 : もう全てが「なんなんだろう、ここ!」って(笑)。

守谷 : 本当にすごい。垂水さんはヒッピーが原点ですよね?

大久保 : ヒッピーだね。サンフランシスコ経由のヒッピーカルチャーというか。アメリカのカルチャーをたくさん持ってきた人だから。

守谷 : そうですよね。

大久保 : サンタナですよ、本当に。当時の雰囲気はカルロス・サンタナです。

操上 : ははは。

大久保 : 当時のそのお店にすごくびっくりしちゃって。高いから何も買えないと思ったんだけど、バイトで貯めたなけなしの小遣いで、ペラッペラの裏起毛のスエットパンツを買ったんだよね。ウエストにゴムも入ってないやつ。ショッパーも、紙袋をホチキスで留めたみたいな。目に入る全てのものにやられちゃって、誰の目も見れなかったな。怖くて(笑)。

守谷 : そうですよね(笑)。

大久保 : その後垂水さんのところで、ペータースタジオがあった地下に極楽鳥ってお店ができたんです。

守谷 : 知ってます知ってます!

大久保 : これもまたカルチャーショックでね。アースシューズを初めて見て、なんで後ろが低いんだろうって。それとオイルのライトも初めて見た。ここは一体なんなんだと。スタッフの古着ミックスのスタイルも、ものすごくカッコ良かったし。その後ですよ、代官山に移ったのは。

守谷 : 代官山しか知らなかったな。

カッコいいもの、新しいお店に
飢えていたアルバイト時代

自分にとって原宿の原点は
初期のハリランとBEAMS

大久保 : だから俺にとっての、原宿のお店の原点は、ボスがやってた神宮前のハリウッドランチマーケット初期。それから重松さんたちがやってたBEAMSかな。BEAMSにも何か新しいものを感じた。

守谷 : そうだったんですね。

大久保 : 当時『ELLE』の後ろの方に、男性のコーディネートが出ているちょっとしたページがあったんだけど、雰囲気はそれに近い。ファティーグパンツにカウチンニットを着ている写真があって。こっちとしたら、当時ファティーグをお洒落に穿くっていう感覚がなかったからさ。

守谷 : 難しいですもんね。

大久保 : そういう雰囲気が最初のBEAMSにはあったんだよね。

守谷 : 僕が体験してきたBEAMSとはやっぱり違いますね。その頃って、スタイリストは意識していました?

大久保 : いや全く意識していない。

守谷 : 世の中的にも、そういう職種自体があまり認知されていなかった時代ですしね。どういう経緯でスタイリストになられたんですか?

大久保 : 当時『POPEYE』をやっていた、北村勝彦のファッションに憧れて。編集部にバイトで入ってアシスタントになったのが最初です。

守谷 : まだスタイリストという職業がそれほど知られていない時代に、ことメンズに関して言うと、北村さんが最初の方ですか?

大久保 : メンズっていう観点だと、北村さんが最初かも。『POPEYE』創刊時の、北村さんのスタイリングっていうのがまたすごくカッコ良くてね。タキシードの上にダウンジャケットを羽織ったり、ブレザーの上にマウンテンパーカを合わせていたり。そういう組み合わせが斬新だった。

守谷 : ファッション的な観点で言うと、大久保さんの時代のミュージシャンはどうでした? :

大久保 : カッコいい人はもちろんいたけど、見て即自分に取り入れられる時代でもなかったから。

守谷 : そうですよね。そうなると情報収集は、やっぱり雑誌ですか?

大久保 : 俺は『POPEYE』とか『流行通信』を買っていました。

操上 : ちょうど俺が撮ってた頃だ。

大久保 : そうです! : 当時の『流行通信』を今日は何冊か持ってきています。モデルはもちろんなんだけど、魚や野菜といったブツの写真も好きで。

守谷 : 今もそうだし、時代が変わってもカッコいいと思える写真やページって本当に感銘を受けます。

大久保 : 当時はメンクラもあったけど、モードっていうところだと『流行通信』の方が俄然お洒落だった。

操上 : 俺はブツ撮りが大好きだったんだよね。人間の顔、ブツのどちらが好きかと言われたらね。ブツ撮りって自分と物だけだからすごく集中できるし、誰も何の文句も言えない、何もできないから。もうあとは自分との戦いだけ。ストイックに追求できるから好きだったな。

守谷 : 編集を始めた頃から思っていましたけど、ブツをカッコ良く撮られる方こそ本当にすごいカメラマンなんだなと。ブツをカッコ良く撮れる人は他もカッコ良く撮れる。

大久保 : ファッション好きがみんな『流行通信』を読んでいたのも、そういうカッコ良さに影響されたんだよ。とにかく別世界に行けるじゃん。見ていてすごく楽しかったし、これを見ればファッションに浸れるから。

守谷 : その過去もあって、北村さんのアシスタントになったんですね。

大久保 : そう。北村さんに指示されたアイテムをリースして、返却しに行くという。当時はプレスルームなんてそんなになかったから、お店から借りたりして。当然ピシッとアイロンをかけて、畳んで返さなきゃいけない。他にふたりアシスタントがいたけど、俺は文化に行っていたのもあってアイロン掛けとかも一応できたから、そういう担当で。そうして『POPEYE』に1年くらいいたんだけど、俺はなんか出来が悪くてさ。

守谷 : そうなんですか?

大久保 : 原稿がうまく書けなかったり、他にもいろいろあって、それでクビになったんだよ(笑)。

守谷 : やっぱり当時のスタイリストや編集って、自分で物を借りて原稿を書くスタイルだったんですね。

大久保 : 『POPEYE』はそうだったね。半ページでもあったら、そこは全部その担当の責任でやっていた。カメラマンの手配からどういう構成にするか、ネガ選びや原稿、全部やらなくちゃいけない。そういうのが俺は向いていなかったんだよね。

守谷 : そうだったんですね。

大久保 : クビになっちゃって、ボーッとしていたら『平凡パンチ』から石﨑さんが来て。今の会長だね。『an・an』でプレッピー特集をやるから、お前やってみないかと。

守谷 : お声掛けが!

大久保 : それが転機。ちょうど24か25歳くらいの時かな。コーディネートを作って簡単なキャプション書きくらいだったから、これは合ってるかもと思ってね。当時、男物と女物をミックスする感じがあまりなかったから、それをやったり。金子さんのところのピンクハウスは、女性ものだけどメンズライクなデザインのものもあって、それにメンズの服を敢えてミックスしてさ。その後に、ボールクローズドのイタリアン、いわゆるイタカジって言われるやつね。マリテ+フランソワ・ジルボーとか。

守谷 : ジルボー、覚えてます。

大久保 : ジルボーがバッと出てきたんだよ。その時、唯一俺も好きだったから食らい付いていって。81年、82年くらいかな。くればやし美子さんですよ、当時の。

操上 : 懐かしいね。

大久保 : 美子ちゃんの表紙で、ジルボーのストーンウォッシュのブルゾンを使ったスタイルがすごくウケて。

守谷 : 大久保さんのイメージって、“スタイリストの元祖的な存在”なんですよね。トラッドやその辺りも大久保さんのイメージです。そしてミュージシャン。しかも単なるスタイリングじゃなく、その枠を超えたブランディングというか。分からないですけど、当時スタイリストって衣装を貸すだけの人、というイメージがあって……。

大久保 : ああ、そういうイメージはあったのかも。

服漬け、音楽漬けの日々。
バイト代は全て服とライブに

なけなしのバイト代で通っていたという、ライブのチケットも綺麗に保存! : 75年に来日したエリック・クラプトンの2度目の武道館ライブや、ニール・ヤングの76年東京ドーム公演など。無類の音楽好きでも知られる大久保さんの原点を示す、歴史的にも貴重な財産だ。

自身も転機だと語る
『an・an』の仕事

現マガジンハウスの会長である石崎さんに『an・an』で声を掛けられ、スタイリストの仕事を始めた大久保さん。こちらは82年に出版された別冊本で、担当ページは企画・構成から全て自身で手掛けていたとか。今なお色褪せない、カッコ良さと熱いパワーが健在。

若き日の鮮烈な衝撃は今も忘れない

雑誌『ELLE』の巻末にあった小さな記事の切り抜き。アルバイト時代に大きな衝撃を受けたこの一枚を忘れられず、大事に保管していたそう。ファティーグパンツをお洒落に穿く、当時では全く新しい感覚。新たな提案を生み出し続ける、大久保さんの原点が感じられる。

ミュージシャンはカッコいい”を作ってきた先駆者

音楽好きが高じ、ミュージシャンのジャケ写も手掛けるように。限定的に結成されたKUWATA : BANDや坂本龍一さん、ギタリストの渡辺香津美さんなど多くのアーティストの仕事に携わり、時には硬派に、時には攻めて。それぞれのパブリックイメージを作り上げてきた。

大久保さんのクリエションが
詰まった公式ファンブック

今でも熱狂的ファンが多いBOØWY。公式ブックの製作にあたり、『平凡パンチ』の特集で撮ったネガを全て提供。「自分が担当したものがこの本に使われているのを見た時は本当に嬉しかった」と語る。そして当時のレコードのジャケットには、なんとメンバーの直筆サインが!

ファッション好きの青年を
別世界に誘ってきたバイブル

別世界に誘ってきたバイブル本連載ではお馴染み、ファッションアディクトのバイブルであった『流行通信』。当然、大久保さんも愛読。我らが操上和美さんが撮影した当時のモデル写真をはじめ、脚や魚、野菜に至るまで多大な衝撃を受けたと語る。ファッションの道に進むきっかけとなった一冊。

誰もが知る著名人達の
イメージを作り上げてきた

守谷 : でも大久保さんは、全部やっているように思いました。最近だと木梨さんもその一人のように思うんですよね。大久保さんがイメージを作ったように感じるんです。BOØWY然り。名前を拝見してると「うわ、すげえ!」って人ばかり担当されていて。しかも、スタイリングの域を超越しているというか。

大久保 : 元々音楽も好きだったからかな。『an・an』を1、2年やったくらいの頃に、自然と広告の世界に行きたいと思って。最初の広告案件は、横山修一さんの仕事。バイクのイメージカタログだったような。北海道へロケをしに行ったんですよ。その時のヘアメイクが大村君で。当時まだ25、26歳で、これから広告やるぞって一緒にいたスタッフもみんな目がギラギラしてたな。狭い宿で雑魚寝だったんだけど、そこでみんなこう寝ながら話し始めてさ。大村君が「俺、最近クリさんと撮影したんだよ」とか言ってすごい自慢してて。「すげえ!操上さんと撮影したの!?」なんて話したのを鮮明に覚えてるよ(笑)。

操上 : ははは。

守谷 : 今もそうですけど、やっぱり当時から操上さんと仕事をするってすごいことだったんですね。

大久保 : それはもう。横山さんの仕事をきっかけに広告をやり始めて。そうするとやっぱり音楽が好きだから、そっちもやりたくなったんだけど、当時のミュージシャンってなんかダサかったんだよね。

守谷 : 今とは違うんだろうなって想像つきます。最初についたミュージシャンってどなただったんですか?

大久保 : 誰だったっけな。ただ、すごい記憶にあるのは、KUWATABAND。

守谷 : サザンオールスターズの?

大久保 : そう。サザンオールスターズとは別で作ったバンドなんだけど。その時に1枚だけアルバムを作って、そのジャケ写の仕事をやったんだよ。全員黒のMA-1を着せて。

守谷 : サザンとしては陽気な印象が強いから、そのイメージとは真逆な感じが新しいですね。

大久保 : ディレクションしたっていうと、そういうことになるのかな。今でこそアレだけど、当時はMA-1の、しかも黒って全然認知がなくて。でもKUWATABANDでみんなが着ているのが、すごくカッコ良かった。

守谷 : ミュージシャンのスタイリストって当時、あんまりいなかったんじゃないですか。

大久保 : いなかったかも。だからこそ、自分で見つけなきゃいけなかった。一個一個の現場が本当に楽しかったし勉強になったよ。

守谷 : よく一緒に仕事される方とかもいらっしゃったんですか?

大久保 : たくさんいたけど特定の誰かと組むことは少なかったかな。

守谷 : そうなんですね。大久保さんは今、ご自身でブランドもやられていらっしゃいますよね。きっかけはなんだったんですか?

大久保 : ザ スタイリスト ジャパンを始めたきっかけは、ストリートの人達が着られるようなスーツがなかったから、じゃあ作ろうかみたいなところから。裏原の人達は、みんなディッキーズやベンデイビスを穿いて、上はTシャツやネルシャツ。まあそれでメッシュキャップをかぶって……という、いわゆる西海岸の格好だったんですよ。

守谷 : でしたね。

大久保 : 当時の裏原で、そういう格好をしている人ってイケてる人が多いじゃないですか。そういうのを見てきて、意外とこの人達が着こなすスーツってないだろうなと。同時に、こういう人達が似合うスーツがあったらいいなって思ったんだよね。

守谷 : 確かに。

大久保 : そこで、ワークウエアでスーツを作ったら面白いなと思って。それが原点だね。

守谷 : (テンダーロインの)西君と出会ったのもそれくらいの時ですか?

これがなくなれば他は何もできない。
今の仕事が天職

遠くにいてもカッコ良さが滲む
テンダーロインとの出会い

大久保 : もっと前で、90年代前半くらいかな。当時、芝浦のGOLDってあったじゃないですか。外にケータリングのトラックとかが出てる。かなり遠い距離からだったんだけど、それでも分かるくらい、ものすごくカッコいいふたりがいたワケ。それが西君と辺見君。

守谷 : そんな出会いなんですね!

大久保 : 見かけただけなんだけどね。多分海外から帰ってきて、これからテンダーロインをやり始める、って時じゃないかな。当たり前の格好をしてるのに、なんでこいつらこんなにカッコいいんだ。あの人達一体なんなんだろうってずっと見てた。

守谷 : 大久保さんがカッコいいと思うって相当ですね!

大久保 : 知り合いでもないから、そこで声を掛けるあれもなくて。そしたらちょうど、宮下君が東京タワーの下で、日本での最後のショーをやるという機会があって。その時、席に西君がいたんだよ!

守谷 : 僕も行ったので覚えています。

大久保 : 西君と完治君がいたね。グリーンのバッファローチェックに、テンダーロインのステッカーもちゃんと縫い付けてなかったような、両面テープかなんかで付けてるような雰囲気だったんだけど。うわ、いた!と思って。隣にいた完治君は藤井フミヤ君のところにいた時から面識があったから、紹介してもらって声を掛けたんだよね。

守谷 : じゃあ、結構昔だ。

大久保 : その頃、同時に木村拓哉氏のドラマ『プライド』の話がきて。

守谷 : すごく流行りましたよね!

大久保 : しかもアイスホッケー。テンダーロインがCHIEFSをやってた頃。映画『スラップショット』に出てた、ハンソンブラザーズのあれね。

守谷 : あのフーディですね。

大久保 : 完治君がテンダーロインに入った時ともちょうど重なって。CHIEFSって描いたトレーナーもスエットも作ってたから、これしかないなと思って「悪いけど完治君、借りられるか聞いてもらえないかな」ってお願いして聞いてもらったらOKが出て。アレは本当に嬉しかったなあ。

守谷 : プライドの時の洋服、めちゃくちゃ際立ってましたよね。あの辺りで木村さんの“お洒落”というパブリックイメージが確立した気がしています。

大久保 : そうかもね。

守谷 : ああいうドラマのスタイリングは、基本的に丸投げですか?

大久保 : うん、丸投げ。

守谷 : 大変ですね、イメージを強く印象付けるからこそ。

大久保 : そうだね、だから台本を全部読み込んでたよ。ドラマの場合、美打ちっていうのがあって。台本を読みながら美術さんやみんなで、例えばここで木村さん海に飛び込む、じゃあ衣装が何枚必要だ、とかそんなようなことをする打ち合わせなんだけど。毎週収録の前に必ず美打ちに出て、台本を読んではシーンを想定しながら、全部のコーディネートを組んで。『華麗なる一族』の時もそうだったよ。

守谷 : あれだけ博識の西君が、「大久保さんしかいない!」ぐらいに言っていたので。僕にとっては彼が師匠みたいな存在ですけど、彼にとっては大久保さんなんですね。

操上 : みんな大久保さんの下でしょ?

大久保 : 下とか上とか全然ないですよ、もう。僕も影響を受けてるし。

守谷 : そこがすごいですよね。あまり上下関係を気にせず、みんなとフラットに付き合っているような印象がある。だからこそ、みんなリスペクトしているんだなって思います。

操上 : 何年生まれでしたっけ?

大久保 : 1955年です。66歳です。

操上 : 俺と20歳違うんだ。

大久保 : そうなんですよ。子どもでもおかしくないくらい(笑)。

守谷 : お二方でその差があると、僕なんかまだまだですね(笑)。

大久保 : 75年、北海道から出てきた20歳の頃から、ずっと操上さんを見てきて。今も操上さんはこうやって現役でやっている。今こうやって一緒に仕事できるって、本当にラッキーな事だよね。

守谷 : ちょっと僕、ここにいていいのかなと思うくらい(笑)。

大久保 : いやいや。それがやっぱりラッキーなんだよ。こういう仕事をしてて良かった、幸せだなと思うよ。

守谷 : 僕もそれはひしひしと感じます。こうして会いたかった人に会えるというのは編集冥利につきます。

操上 : 大久保さんの話を聞いていると、今に通じている嗅覚を、当時から持っていたんだなって思うよ。同じ北海道から出てきて、俺も原宿にいたけど全然違う。俺はもう写真にしか目が向いていなかったから。ファッションだとか、原宿のカルチャーだとか、そういうものを考えていなかったし、感じてもいなかった。大久保さんが今も大久保さんで在るのは、当時からその嗅覚があったからなんだね。

大久保 : ありがとうございます。

守谷 : これだけ長く続けられていて、辞めたいと一度でも考えたことありますか?

操上・大久保 : ない。

守谷 : お二人とも即答、しかも食い気味で……(笑)。

大久保 : これが天職だもん。

操上 : 全くないしこれからもそう。

守谷 : サスガです。今日はありがとうございました!