藤原ヒロシ fragment design | それぞれの原宿物語 a long time ago in harajuku vol.1

photography by KAZUMI KURIGAMI
text by HISAMI KOTAKEMORI

創刊から20年を迎えるSENSEが、ひとつの区切りとして「原宿」にフォーカスした連載を始める。原宿は1960年代後半から現在に至るまで、様々な流行やスター、スーパーブランドを生み出してきた。今や世界有数のファッション都市になった原宿を、クリエイターと編集長 守谷の対談で切り取る。第1回は藤原ヒロシさん。原宿でキャリアをスタートしたフォトグラファー、操上和美さんにも参加頂き、原宿がどのようにファッションの街になっていったのか? それぞれの視点で語ってもらった。

表参道に同潤会アパートしかなかった時代

セントラルアパートが
キャリアのスタート地点

守谷 : SENSEは今年で20周年を迎えます。そこで、昔から温めていた日本を代表するファッションシティ、原宿にフォーカスした新連載を始めたく。原宿と言っても人によってイメージするエリアや印象は違います。日本のファッションに携わってきた皆さんがどう考えているのか?それぞれが描く原宿の全容をまとめてみたいと思いまして。そこでまずは僕が、原宿の象徴と考えているヒロシさんにご登場いただきたいなと。今回は特別に、この連載の撮影をお引き受けいただいたカメラマンの操上和美さんにもご参加いただきます。

藤原 : 操上さんも原宿に?

操上 : 僕は1961年からセントラルアパート(神宮前交差点にあったビル。現・東急プラザ表参道原宿)にいました。

藤原 : すでにあったんですか?

操上 : 古いビルですから(58年に完成)。

藤原 : 64年の東京オリンピック以降だと思っていました。

操上 : オリンピックでできたのはコープオリンピアですね(原宿駅に近い南国酒家があるマンション)。

藤原 : ラフォーレ原宿の場所に教会があった頃ですよね?

操上 : そうですね。窓から見えました。

守谷 : 写真では見たことあります。

藤原 : 教会の隣に外人が集うルート5というドライブイン・ダイナーがあったと聞いていますが……。

守谷 : そんなものが?

藤原 : 僕、そこはほぼ知らないんですが、教会はなんとなくぼんやりと憶えています。初めて原宿に来た時はまだラフォーレがなかったので。

守谷 : 操上さんはなぜセントラルアパートに来ることになったのですか?

操上 : 杉木直也さんという写真家がいて、当時サントリーが出していた『洋酒天国』という広報誌を開高健さん(食通で知られる小説家。『裸の王様』で58年に芥川賞を受賞)と作っていました。ウイスキーのボトルの物撮りが上手くて、酒を飲んでいる人のポートレートもむちゃくちゃカッコ良かった。それで僕は彼に弟子入りしたのですが、そしたら、セントラルアパートに事務所を作りたいと言って。事務所の中には狭いんですけど、スタジオも作って。キッチンを暗室にしてね。杉木さんが写真家であそこに入った第1号じゃないですかね。

藤原 : 同期とかいなんですか?

操上 : その後に写真家の鋤田正義さん(デヴィット・ボウイの『ヒーローズ』に写真を採用されたことでも有名)とか、浅井慎平さんも入って、マックスファクターの広告のアートディレクターをしていた宇野亜喜良さん(紫綬褒章を受賞したイラストレーター)なんかも来て、結構賑やかでした。

藤原 : 僕はそこからちょうど20年後ですね。81年頃にセントラルアパートに行っていました。上京した当時、そこにミルクがあって、大川ひとみさん(原宿のストリートカルチャーを築いてきた有名ブランド、ミルクの創設者)のところに毎晩のように通っていました。

守谷 : 当時ヒロシさんは何歳でした?

藤原 : 18歳。東京出てきてからは毎晩のようにセントラルアパートに……。

守谷 : 僕がヒロシさんに最初にハマったのが、キョンキョン(小泉今日子)のプロデュースをされていた時です。僕が16歳か17歳だから、89年か90年の頃です。

藤原 : セントラルアパートは?

守谷 : ありました。当時僕はヒロシさんをDJとして、かつキョンキョン等をプロデュースした人として認識していました。で、血眼になって彼女のTシャツを探していて(苦笑)。操上さんからヒロシさんがちょうど20年、ヒロシさんから僕が約8年後、とそれぞれの原宿物語の始まりにはかなり開きがある。そう考えると凄いですね(笑)。

藤原 : しかも61年頃だと、原宿ってまだ何もないですよね?

操上 : 何もなかったです。でも表参道の坂を上がる途中に、今は安藤忠雄さんが作った表参道ヒルズになっていますが、同潤会アパート(27年に竣工)はありました。

守谷 : 80年代にお洒落なアパートとして脚光を浴びていたようですが、その頃でも憧れの存在でしたか?

操上 : いやいや全然。汚いアパートで。

守谷 : そうなんですか!?

操上 : 当時、売りに出たんですよ。「安く買えるよ」と言われて周りには買った人も何人かいましたが、僕にはそんな発想がなくて。こんな汚いところ嫌だなと思っていた。

守谷 : 賃貸でなく買えたんですか。

操上 : 買っておけば、新しく建て替わったときに、優先的に住める権利が得られるっていう話もありました。今も表参道ヒルズの端に、少しだけ古い建物を記念に残していますよね。

気鋭のクリエイターが次々と
原宿に集まってきた!

守谷 : 原宿=ファッションシティになる前の時代、あの界隈は何の街だったんですか?

藤原 : 明治神宮があり、その先にはワシントンハイツ(在日米軍)があったけど、当時の写真を調べてみたら、表参道は本当に同潤会しかない。こんな感じです(藤原さんがスマホで写真を見せてくれる)。

守谷 : おーっ!

操上 : 今、表参道の欅は向こうが見えないくらい大きいでしょ?60年代は全然大きくないから、セントラルアパートから青山通りを横切っている有名人が見えた。それほど見晴しが良かったんですよ。

守谷 : 本当に何もなかったんですね。

操上 : 60年代は高度成長期ではありましたが、まだ戦争の跡のようなものもところどころに残っていて、僕がセントラルアパートに入った当時はフィリピン賠償使節団というボードが1階にバーッと立っていた。外務省が第二次世界大戦の賠償交渉のための事務所を構えていたんですよ。

藤原 : 昔ってそういう感じでしたよね。僕が上京した頃は代官山にPLO(パレスチナ解放機構)があった気がします……。

守谷 : マジですか?

操上 : 当時はラルフローンの横の道をずっと入っていったところにアパートを借りて住んでいました。

藤原 : セントラルアパートで働いて、原宿に住んでいて……元祖原宿キッズじゃないですか(笑)。

守谷 : 確かに(笑)。そこを選んだ理由は?

操上 : たまたまです。職場から近いし。

藤原 : でもその頃の原宿には業界の、といってもまだ業界も成熟していなかったかもしれませんが、広告やメディアに携わるクリエイターの人たちが、たくさんいたということですよね?

操上 : あの当時、みんな集まってきたね。西尾忠久さんという日本デザインセンターにいたコピーライターでフォルクスワーゲンのキャンペーンなどを手がけた人も来たし、指揮者の小澤征爾さんもいました。そう安田銀治さんというレーサーもいて、その親がセントラルアパートの所有者だったんじゃないかな?アパートという名前でしたが、中は吹き抜けの回廊式でとても洒落た建物でした。1階にはカフェがあって、僕は5階でしたが、ある時賑やかだなと思って見下ろしてみたら、今野雄二さんが挨拶をしていて、隣にブライアン・フェリー(70〜80年代前半にロック界をリードしたロキシー・ミュージックのボーカリスト)が立っていた。

藤原 : 他にそういう街はなかったんですか?原宿以前にクリエイターが集った街って。

操上 : ないんじゃないですか。

藤原 : 原宿が最初の街だったんですね。

守谷 : ということは60年代からずっと原宿なんですかね。ヒロシさんが最初に原宿に来たのはいつですか?

藤原 : 僕は中学の時に、パンクの洋服を買いに。原宿に赤富士(74年〜75年から竹下通りにあった古着屋)と極楽鳥というお店があってそこに行きたくて。原宿がクリエイターの街だとかそんなことは知らなくて、雑誌を読んでその洋服屋の存在を知って、それで。

守谷 : もうそういう街でした?

藤原 : ファッションぽい街でした。僕が来たのは76~77年頃ですが、竹下通りもあって、セントラルアパートの地下には原宿プラザというブティック街もあった。赤富士はそこにありました。東京に住んでいる先輩とレオン(70年代、数多くの著名人が利用した喫茶店)で待ち合わせをしてあちこち連れて行ってもらいました。

守谷 : 三重からだと結構遠いですよね。

藤原 : まあ、新幹線で。

守谷 : 相当トッっぽい中学生でしたね。レオンとかリアルに体験していないんですが、それこそクリエイターたちの溜まり場だったと聞いています。

藤原 : 僕が上京した80年代にはレオンの全盛期は過ぎていて、その向かいにあったカフェ・ド・ロペのほうがモデルやタレントがいて華やかでした。

ファッションタウンへ変わり始めた70年代

米軍施設があったから
モダンな街並みが生まれた

守谷 : 何がきっかけで原宿にクリエイターが集まるようになったんでしょう。キーマンはいらしたんですか?

藤原 : そもそもアメリカ軍の施設があったからだと思うんですよ。今の代々木公園やNHKのあたりにはワシントンハイツがあって、原宿には戦後からアメリカ人も多かった。

守谷 : そうですよね。

藤原 : 僕が読んだ本だと、昔の日本の八百屋は清潔さがないからアメリカ人が買い物をしたがらなかったと。それで青山の紀ノ国屋はガラスを取り入れた陳列をしたというし、その後も外国人向けにキディランドができたり。自然と街がお洒落になって、そこに惹かれてクリエイターが集まってきたのかな?

守谷 : そう考えると軍施設の周りって、六本木もそうですけど、洒落ていますよね。

操上 : 当時、表参道の突き当りには錠のかかったゲートがあって、そこまでは行って写真が撮れるけど、ワシントンハイツの中には入れなかったね。

藤原 : 金網越しにアメリカ人の男のコたちを見て、カッコいいなと憧れて芸能事務所を作ったのがジャニーさん。

守谷 : ジャニーズ事務所、そうですか。面白い話ですね。

藤原 : これも本に書いてありました。

操上 : その時代のファッションって、どなたが引っ張っていたんですか?

藤原 : 60年代にデザイナーとかいたんですか?まだいないですよね。

操上 : 僕がその頃、よく仕事をしていたのはジュンとかVAN。VANの広告は僕がほとんどやっていました。でも僕は、VANの服は着なかった。アイビーみたいなのは自分に似合わなくて。

藤原 : VANは原宿のイメージがないですよね。でもロペとかドモン(ジュンのメンズブランド)とかジュン系の店は原宿にたくさんあった。

守谷 : たしかにVANは青山のイメージですね。ウチ((株)センス)も昔、実は出世ビルの一つ言われた北青山三丁目のVANビルにいたこともありました。でも、メンズファッションの先駆者はタケ先生(菊池武夫)というイメージがあったんですが、違うんですかね?

藤原 : デザイナーの名前が立つようになったのはタケ先生あたりですか?

操上 : 菊池武夫さんが同潤会の向かいビギを作ったのが70年です。

藤原 : ポール・スチュアートがあった石垣のところですよね。

操上 : セントラルアパートにはレディースのブティックが結構ありました。僕が来てすぐの頃には荒牧太郎さん(パパスのデザイナーも兼任)のニットのお店、マドモアゼルノンノンがあったし、原宿で人気のファッションと言えばやっぱりミルク(70年設立)でしょう。

藤原 : ミルクですね。

守谷 : 操上さんは大川ひとみさんとは繋がっていましたか?

操上 : 存在は知っていましたが、親交はなかったですね。

藤原 : ひとみさんの周りにもカメラマンはいなかったんじゃないですかね。

守谷 : ちなみに操上さんがヒロシさんを知ったのはいつですか?

藤原 : 仲良くなれたのは最近ですよ。

操上 : 僕は全然知らなかった。

守谷 : おー(笑)。かなり最近ですか?

操上 : そうです。ヒロシさんがミルクに通っていたという80年代は、僕はほんど日本にいませんでした。アメリカやヨーロッパ、海外ロケばっかりで。帰国したらすぐにフィルムを現像して、朝まで編集してセレクト渡して、また次の海外ロケへ旅立つという繰り返し。東京のニュースなんて見ている時間もなかった。昔はロケに出たらロケハンと撮影で1か月くらい滞在するのはあたり前でしたし。だから僕はあんまり日本のカルチャーを知らないんですよ。

守谷 : そういうイメージもあります。

藤原 : 操上さんは僕の中ではザ・カメラマン。海外のロックスターをたくさん撮っているというイメージでした。

操上 : 藤原ヒロシという名前は知っていたけど、若い時にどんな人だったかとか、NIGO®︎さんは藤原2号だという話は最近知ったの。

藤原 : 若い頃から結構雑誌の仕事もしていましたが、カメラマンの方はちょっと別格というか。スタイリストやデザイナーとは一緒に遊んだりしましたが、カメラマンは世界が違う感じがしました。一番稼いでいたしね(笑)。

守谷 : そうですね(笑)。

藤原 : カメラマンがいいとこどりで。

守谷 : 確かに。当時から世界的に通用するというところもありましたよね。

藤原 : 僕はスタイリストとよく一緒にいて、彼らがいつも愚痴っていました。
「スタイリストは撮影前に準備を色々して、洋服や荷物もいっぱい持っていかなくちゃいけないのに、カメラマンはカメラ機材、ヘアメイクはヘアメイク道具だけでいいよね」と(笑)。
操上 : いやぁ、そんなことないよ(笑)。

世代の違う3人が
ゴローズの吾郎さんで繋がる

守谷 : 二人の接点になる人って、誰かいたんでしょうか?

操上 : goro’sの(髙橋)吾郎さんは知ってました。

守谷 : やっぱり吾郎さん?僕も吾郎さんの自宅には取材ですけど行かせてもらった事があって。

藤原 : でも吾郎さんはファッションの中にいた人ではないですよね。また別枠というか。

守谷 : でも、原宿では外せない存在ですよね?

操上 : ピーター・フォンダ(デニス・ホッパーと共演した69年に公開された『イージー・ライダー』がカルト的人気を博した)と仕事した時「お前ゴロー知ってるか?」って聞いてくるんですよ。「知ってるよ」と答えると「彼は最高だ!」と崇拝していましたよ。

守谷 : えー!?いつ頃の話ですか?

操上 : 70年代ですね。吾郎さんは何年か前(13年没)に亡くなられたんですよね。亡くなってからもまだ行列が。

藤原 : 昔は行列なかったですよ。

守谷 : 操上さんと同世代ですか?

操上 : 多分同じぐらいです(3歳下)。

守谷 : 吾郎さんとの出会いってどんな感じだったんですか?

藤原 : 僕が憶えているのは、赤坂のムゲン(70年代に一世を風靡したディスコ)だったかな?ビギのショーの打ち上げがあったんですよ。80年代にはもう流行っている店ではなかったんですが、僕は音楽を手伝っていて、ショーが終わって早めに着いたら吾郎さんがいたんですよ。インディアンの格好で。

守谷 : どんな会話をされました?

藤原 : その時は挨拶しただけです。

守谷 : 操上さんはどういう出会いから?

操上 : 近所付き合い。

守谷 : どんな感じでした?

操上 : 出会ったときから吾郎さんはすでにすごい人だったんだけどね。普通の優しい人でした。

守谷 : 原宿の店がオープンしてからですよね?(72年に青山から原宿に移転)

操上 : 僕のことをカメラマンだと知っていてくれたような感じでした。

藤原 : 人当りのいい優しい人ですよね。

守谷 : そうでした。誰にでも優しい。

藤原 : 話し方が独特で、3度ぐらい聞かないと何を言っているか、聞き取れないことがあったり(笑)。

守谷 : 分かります。しゃべり方が独特でしたよね。

藤原 : 当時は業界の人も少なかったから、マイノリティ同士が仲良くなる感じだったんですよ。何か変わったことや新しいことをするとすぐ繋がった。

70~80年代初期の原宿は
渋谷よりも青山と近かった

守谷 : 吾郎さんは原宿の前はセントラル青山というマンションにいて、60年代にアイビーブームを牽引したVANも70年代、青山に本社を構えました。ファッションとしては原宿と並行して青山という流れがあったんでしょうか?

操上 : コシノジュンコさんは南青山4丁目のスキーショップ ジローの前のビル(ゴローさんと同じセントラル青山)ね。あの通りを「キラー通り」と、カッコつけた名前にしたけれど‥‥‥。

藤原 : 今もキラー通りです。

守谷 : 耀司さんか川久保(玲)さんも、その界隈にいましたか?

操上 : 二人はもうちょっと後ですね。その頃はニコルの松田光弘さんとか。千駄ヶ谷側のキラー通りにはニコルのブティックもありました。

藤原 : 80年代はニコルのアトリエはユナイテッドアローズの裏手にあった。あの頃、海外からも色々新しいモノが入ってきましたよね。イタリアンカジュアルブームがあって、キラー通りにボールのブティックができたり。

守谷 : キラー通りが熱かった?

藤原 : 業界の人に人気のあったキューズバーもありましたよね?オン・サンデーズ(ミュージアムショップ)の並びに。

操上 : あった。オン・サンデーズも結構早くからあったね。

守谷 : 今までの話をまとめると原宿にお店が増えてファッションタウンになり始めたのは70年代からで、80年代には青山界隈にも色んな店があったと。

操上 : やっぱり70年代に竹下通りができてどんどん若い子が原宿にやってきて、いきなりファッションタウンに変わったような印象があります。

守谷 : 当時は原宿、青山という流れだったと思いますが、僕が若い時は原宿と渋谷がほぼ一緒でした。80年代後期から90年代にかけての、ちょうど渋カジの時代だったんで。原宿と言えばプロペラ(プロペラ通りと現在もその名を残すほど、当時渋カジブームを牽引した伝説ショップの一つ)が真っ先に思い浮かぶような、ヒロシさんとも違う時代。

藤原 : 80年代初頭の渋谷はそんなにファッションという感じでもなかったかな。文化屋雑貨店(2015年に突如閉店した個性派ショップ)とかハローがあったファイヤー通り(渋谷消防署通り)あたりはカルチャー系だったけれど、それ以外は西武とかデパート系。バブルが始まる頃に渋谷にいた人は、違う人種という感じでした。

操上 : セントラルアパート時代、僕は渋谷なんか行ったことなかったですよ。夜は新宿に飲みに行くでしょ?渋谷は田舎だというイメージがあって。

守谷 : 逆に僕は新宿で遊んだことがないんですよ。

操上 : パルコ(73年開店)ができてからだよね、渋谷は。

藤原 : パルコがあった!パルコは僕が中学時代に通っているときにもうありました。イッセイミヤケとかファッションブランドが入ったセレクトショップ的存在でした。僕が吉田カバンを初めて買ったのは多分パルコです。

守谷 : そうなんですね。

藤原 : 80年代のバブル期に普通のデパートだった西武が、文化とかカルチャーという免罪符を持って業界に進出して。アンダーグランウンドのファッションに攻め込んできた感じがしました。

守谷 : キョンキョンの頃はどうでした?

藤原 : 80年代の終わり頃から原宿と渋谷、みたいな区別がなくなって敵対心みたいなのもなくなってきたかもね。操上さんはいつまで原宿に?

操上 : 89年にセントラルアパートを出ました。

青山キラー通りがファッションを牽引

レオンの後にも原宿には
業界人の社交場があった

守谷 : ヒロシさんは今も事務所は原宿ですよね。それだけ居心地がいい?

藤原 : 今はほとんど行っていませんが。

操上 : 昔、原宿ですれ違っていたかもしれないけれど、僕が田舎者だからわからなかったのかもしれない。

守谷 : 話は少し戻りますが、操上さんは一時お住まいも原宿でしたよね?

操上 : 千駄ヶ谷小学校の手前の地下にクラブがあったでしょう?

藤原 : ピテカン(正式名はピテカントロプス・エレクトス)。

操上 : その角を右に入ったところに建築家の坂倉準三さん(モダニズム建築の巨匠、ル・コルビジュエに師事)が作った、(マウリッツ・)エッシャーの絵のような階段があるちょっといいマンションがあって、しばらくそこに住んでいました。ビラ‥‥‥。

藤原 : ビラ・ビアンカ?

操上 : ビラ・ビアンカはピテカンがあったビルで、僕のところはビラ・セレーナだ。当時、黒川紀章さんもいました。

守谷 : ヴィンテージマンションで有名なビラ・シリーズですね。

藤原 : 千駄ヶ谷のあたりは原宿?

守谷 : そのあたりも原宿です。

藤原 : ビラ・ビアンカからユナイテッドアローズの方へ下りてきたところにカル・デ・サックというカフェやラジオというバーがあって。そこも当時、業界の人が集まっていました。僕はそこで初めてホウレン草サラダを食べたんですが、操上さん、カルデサックは行きませんでした?

操上 : バー・ラジオにはよく行ってました。歩いてすぐだから。ほとんど客はそれっぽい業界の人でしたね。内装はインテリアデザイナーの杉本貴志さん(無印良品の店舗デザインを手掛けたことでも有名)で、バーカウターは彫刻家の若林奮さんが作った。そのカウンターは組み木で出来ていて所々に鉄が打ってあって平らじゃないんだけど、めちゃくちゃカッコ良かった。カウンターが美しく、尾崎(浩司)さんが作るカクテルが美味しくて。いいお店でした。

藤原 : その素晴らしいカウンターは、今もあるのかな?

守谷 : やっているようです。当時の業界は日本の文化を大事にしていたんですね。聞いていても本当に羨ましい。

操上 : あそこは本当に良かったですよ。いろんな人が来ていて。

守谷 : 結局、クリエイターの方は、今も昔も飲んでコネクションを広げていたと。

60~70年代の原宿の話は特に興味深いです。と、1回ではとても収まりきりませんでしたので、続きはまた次号のお楽しみという事で!